――19時「風と雨が強くなってきたな……」窓の外を見つめながらルシアンがポツリと呟く。「そうですね。思った以上に嵐が来るのが早かったようですね」ルシアンの仕事が多忙なため、書斎で簡単に取れる食事を並べながらリカルドが返事をする。「イレーネは……大丈夫だろうか」その言葉にリカルドが首を傾げる。「またイレーネさんのことを気にかけていらっしゃるのですか? 確かに私も心配はしておりますが、あの方は肝も据わっているし度胸もありますから大丈夫だとは思いますけど」「……そうだろうか」けれどルシアンには引っかかることがあった。実は2人で『ヴァルト』に行った際、汽車の中でイレーネが語った言葉だった。『私の祖父は、嵐の晩に病状が悪化して亡くなってしまったのです。嵐のせいでお医者様を呼ぶことが出来ませんでした。今も後悔しています』(そうだ……嵐の夜というのは、イレーネにとってトラウマになっているはず……!)ガタンッ!突然ルシアンは席を立った。「ルシアン様? どうされたのですか?」驚くリカルドにルシアンは上着を羽織りながら答える。「食事はいい! すぐに出かける!」「えぇ!? で、出かけるってどちらへですか!?」「イレーネのところに決まっているだろう!? 彼女が心配だ!」「何を仰っているのです!? この天候で馬車を出せるはずありません! もし何かあったらどうするのですか!? それにイレーネさんなら、あの家にいる限り安心ですよ! この程度の嵐ではびくともしない家なのですよ?」ルシアンの身を案じるリカルドは必死で止める。「家にいるからって安心だということは無いだろう!? それに馬車を使わなくても移動手段なら他にあるのさ」ルシアンはニヤリと口元に笑みを浮かべると、部屋を飛び出して行った――****――20時その頃イレーネはソファの上に座り、ブランケットを被って震えていた。嵐は益々酷くなり、木戸にバシャバシャと雨が当たる音が部屋の中にも響き渡っている。その矢先。ガラガラガラ……ッ! ドーンッ!!「きゃああ!!」物凄い雷の音が鳴り響き、イレーネは身体を縮こませた。(怖い……! 嵐の晩に、お祖父様は……!)イレーネの脳裏に祖父が亡くなったときの光景が蘇る。雨風が激しく吹付け、修繕の行き届かない屋敷の中に隙間風が入り込んでいた。ゴウゴウと不
――22時半 あれほど酷かった嵐はいつの間にか止み、落ち着きを取り戻したイレーネはダイニングテーブルにルシアンと向かい合わせで座っていた。「本当に、お恥ずかしい姿をお見せしてしまって申し訳ございませんでした」恥ずかしさで顔を赤くしながらイレーネが謝罪する。「別に恥ずかしいと思う必要は無いだろう? 人は誰しも苦手なものがあるだろうし」イレーネが淹れてくれた紅茶を飲むルシアン。(それに……新鮮な姿も見ることが出来たしな。まさかイレーネにもあんな一面があるとは思わなかった)「ルシアン様も苦手なものってありますか?」「え? お、俺か? そうだな……」生真面目なルシアンはイレーネの質問に真剣に考える。「……ある、な」「本当ですか? それは何ですか?」「祖父だ。どうにも子供の頃から祖父には頭が上がらない。だから正直、イレーネには感心している。まさかあの気難しい祖父を手懐けるのだから」「手懐けるなんて大げさですわ。単に仲良しになっただけですから。それにやはり、ルシアン様のお祖父様なだけありますね。お2人は良く似てらっしゃいます」「え? 冗談だろう? 俺と祖父が似ているなんて」ルシアンは大げさに肩をすくめた。「冗談ではありません、本当に似てらっしゃいます。私をとても心配してくれるところとか」「そ、そうか……?」今のイレーネの言葉にルシアンの顔が赤くなる。「……でも、駄目ですね。私って」不意にイレーネが自分の紅茶に目を落とし、しんみりとした口調で語る。「何が駄目なんだ?」「私、祖父が亡くなってからはずっと1人でした。誰にも頼らずに、強く生きてきたつもりだったのに。まさか自分がこんなに弱かったとは思いもしませんでした」「……」イレーネの言葉に、ルシアンは何と応えればよいか分からず無言で話を聞く。「それが、ルシアン様と出会って……誰かがそばにいることが普通に感じてしまっていたみたいです。誰かに頼ることが当然のように……でもこれでは駄目なのに」その顔はとても寂しげで、ルシアンの胸がズキリとする。「イレーネ……」別にそれでいいじゃないかと言おうとした矢先、イレーネが先に口を開いた。「もっと、しっかりしないといけませんね。来年の今頃にはルシアン様とはお別れして、もとの1人暮らしの生活に戻るのですから」「!」その言葉に、ルシアンの肩
「……本当に、今夜は戻らないつもりか?」夜空の下。車の前でルシアンは真剣な眼差しでイレーネに尋ねる。「はい、戻りません。今夜の嵐でせっかく耕してしまった畑が駄目になってしまったので明日、作業をしたいのです」「だが……もしまた天候が……」「それならご安心下さい、ほら。空をご覧になって下さい」イレーネに言われて顔を上げると、空には満天の星が輝いている。「……綺麗な夜空だ」思わずルシアンがポツリと呟くと、イレーネは笑顔になる。「ね? これだけ星がでているならもう嵐の心配はありませんから」「確かにそうなのだが……なら、俺も今夜ここに宿泊しようか?」ルシアンの脳裏に、涙を浮かべて恐怖で震えているイレーネの姿が浮かぶ。あんな姿を見せられて、ここに1人で残すことがためらわれた。「ベッドは一つしかありませんけど……なら、ルシアン様がお使い下さい。私はソファでも床でもどこでも構いませんから」「何だって? 女性にそんなことをさせるわけにはいかない」慌てて首を振るルシアン。「ですが、私だって雇い主であるルシアン様にベッド以外では休んでもらいたくはありませんわ」「雇い主……」イレーネの言葉に、何故か壁を感じるルシアン。(やはり、イレーネにとって……俺は契約相手としかみられていないのだろうな)じっと見つめるルシアンにイレーネは首を傾げる。「どうしましたか? ルシアン様」「いや、何でも無い。……分かったよ。もう天気は大丈夫そうだからな。帰るよ」ルシアンは車のドアを開けると乗り込み、再度イレーネに尋ねた。「イレーネ。あと何日程でマイスター家に戻れそうなのだ?」「そうですね……3日以内には戻れると思います」「分かった。とにかく……戸締まりだけはしっかりするんだぞ?」「ええ。大丈夫ですわ。ルシアン様も気をつけてお帰り下さい」ニコニコ笑みを浮かべるイレーネ。「……ああ、それじゃあ」ルシアンはイレーネに見送られながら車で走り去っていった。「……本当に、車というものは早いのね……」あっという間に地平線に消えていったルシアンの車を見ながらポツリとつぶやき……欠伸をした。「ふわぁあああ……眠くなってきたわ。今夜はもう休みましょう。明日は朝から忙しくなりそうだし」そしてイレーネは家の中に入ると、戸締まりをした――****――翌朝パンにチ
イレーネ・シエラは今、とても追い詰められていた――「一体どうするつもりなんだ? イレーネ。このままでは後半月でこの屋敷は差し押さえられるぞ?」イレーネと幼馴染。弁護士に成り立ての栗毛色の髪の青年、ルノー・ソリスの声が部屋に響き渡る。何故、彼の声が響き渡るかというと、この屋敷にはほぼ家財道具が無いからであった。「ええ、そうよね……どうしましょう。まさかお祖父様が、こんなにも借金を抱えていたなんて少しも知らなかったわ。そんなに派手な生活はしていなかったのに……」古びた机の上には書類の山が置かれている。イレーネはブロンドの長い髪をかきあげながら書類に目を通し、ため息をついた。その書類とは言うまでもなく、祖父……ロレンツォが遺してしまった負債が記された書類である。「イレーネ、おじいさんを亡くしてまだ三ヶ月しか経過していない君にこんなことを言うのは酷だが……もう爵位は手放して誰か金持ちの平民に買い取ってもらおう。そうすればこの屋敷だけは残せる」「ええ。そうなのだけど……お祖父様の遺言なのよ。絶対に男爵位だけは手放してはならないって」イレーネは祖父の遺した遺言書を手に取り、ため息をつく。「それはそうかも知れないが……住むところを失っては元も子もないだろう? 大体君は病気で倒れたおじいさんの看病をするために、仕事だって辞めてしまったじゃないか」現在二十歳のイレーネは花嫁修業も兼ねて、エステバン伯爵家でメイドとして働いていた。しかし、半年ほど前に祖父が病気で倒れてしまったために仕事を辞めて看病にあたっていたのだ。「仕方ないわ。ソリス家はお金が無くて使用人たちは全員暇を出してしまったのだから。私がお祖父様の看病をするしかなかったのだもの。それにお祖父様は子供の頃に両親を亡くした私を引き取って今まで育ててくれたのよ? 遺言を無下にすることは出来ないわ」「だけど、君は今まで必死になって頑張ってきたじゃないか。家財道具を売り払って、おじいさんの治療費にあててきただろう? その結果がこれだ。もうこの屋敷には売れるものすら殆ど残っていないじゃないか。それなのにまだ五百万ジュエル以上の借金が残されているんだぞ? どうやって返済するつもりなんだ」ルノーはすっかりがらんどうになった室内を見渡す。「銀行から借りるっていうのはどうかしら?」イレーネはパチンと手を叩い
午前11時半――コルトの町の中心部に到着すると、ルノーは馬車を止めて扉を開けた。「町に着いたよ、イレーネ」そして手を差し伸べた。「ありがとう」ルノーの手を借りて馬車を降りたイレーネは目を見開いた。「まぁ、ここは……」「そうだよ、イレーネが来たがっていた職業紹介所だよ」「まさか、ここに連れてきてくれるとは思わなかったわ。ルノーは仕事が忙しい人だから、職場の近くまでで良かったのに」ルノーが務める弁護士事務所は職業紹介所よりもずっと手前にあるのだ。「何言ってるんだ。そんなはずないだろう? それに君のことだ。恐らく、途中で降ろせばここまで歩いてきていたんじゃないか? ドレス姿の女性を歩かせるわけにはいかないからな。大事なドレスを汚してしまったら困るのは君だ」「あら……分かっちゃった?」肩をすくめるイレーネ。イレーネは薄紫色のツーピースのデイ・ドレス姿だった。このドレスは数少ない彼女のドレスで、面接に挑むための外出着である。「大切なドレスまで大分手放してしまっただろう? もとからシエラ家は貧しい男爵家だったから、君は社交界デビューだって出来なかったじゃないか……今ならまだ間に合う。爵位を手放して、高額で金持ちの商人にでも売ってしまわないか? 俺に任せてくれれば、上客を紹介出来るぞ?」屋敷を手放すことに反対のルノーは最後の説得を試みる。「だから、それは出来ないって言ってるでしょう? ルノーは知らないの? 爵位があるだけで、好条件の仕事を紹介してくれるのよ?」「そんなことくらいは知ってる。仮にも俺は弁護士だぞ?」少しだけムッとした表情を見せるルノー。「幼馴染のあなたが私を心配するのは分かるし、その気持は嬉しいけれど……私は祖父の遺言を守りたいの。それじゃ行くわね。良い仕事が斡旋してもらえることを祈っていて?」「……分かった。行って来いよ」イレーネは笑顔でルノーに手を振ると、ガラス張りの回転扉をおして職業紹介所へ足を踏み入れた――****「え〜と……イレーネ・シエラさん……現在二十歳ですね?」イレーネの前にメガネを掛けた男性職員が、彼女の履歴書に目を通している。「はい、そうです」「……あぁ、なるほど……シエラ家……あまり聞いたことはありませんが男爵令嬢なのですね?」「確かにあまり名門ではありませんが、これでも貴族令嬢の嗜みは
「もっとその詳しい求人内容を教えていただけないでしょうか?」身を乗り出すイレーネに男性職員はメガネをクイッとあげた。「はい、良いでしょう。え〜と、まず場所ですが……『デリア』という町ですね。この町から汽車が出ていますね」「『デリア』なら聞いたことがあります。あの町はここよりもずっと近代化の進んだ町ですよね? 確か汽車で三時間程ではなかったでしょうか?」「ええ、その通りです。勤務時間は……おや? 一応二十四時間体制とはなっておりますが、基本夜の勤務は殆ど無いみたいですね。けれど夜勤が入る場合は別途給金を上乗せしてくれるそうです。仕事内容は面接のときに教えてくれるそうですが……う〜ん……いかがいたしますか?」男性職員は少し首をひねりながらイレーネに尋ねる。「はい、構いません。ぜひ面接を受けさせて下さい」「ええ!? ほ、本当に受けるのですか? 全く仕事内容が不明なのですよ? しかも奇妙な条件ですし……」「面接に行けば詳しく仕事内容を聞かせてくれるのですよね? すぐに紹介して下さい」今にも住むところを失いそうなイレーネにとって、衣食住保証付きの高額給金の仕事はとても魅力的だった。あれこれと選んでいる時間も手間も惜しかったのだ。「分かりました……それでは紹介状を書きましょう。少しお待ち下さい」男性職員は傍らに置いた便箋に、スラスラと文章を起こすと封筒に入れてイレーネに差し出した。「はい、ではこちらの手紙を持ってマイスター伯爵家に渡して下さい。面接日時は特に細かい決まりはなく、平日の十時から十七時までの間に伯爵家に直にお越し下さいと書かれておりますね」「え!? そんないい加減……いえ、そんな大まかなことで宜しいのでしょうか?」イレーネは驚きで目を見開く。「もしかすると先方も早急に人手を捜しているのかもしれませんね。何しろ二百キロ以上も離れたこの町にも求人を出している程ですから」「そうですね。色々なにか事情があるのかもしれませんね。妙な質問をしていまい、申し訳ございません」謝罪の言葉を述べるイレーネ。「いえいえ、そんなお気になさらないで下さい。あ、そう言えば先程の求人欄で気になる箇所が書いてありました」「え? 本当ですか? 教えて下さい」イレーネは再び、身を乗り出した。「もちろんです。え〜と、口が固い方……秘密保持出来る方を望む、とあ
女の子にお駄賃として三百ジュエルを渡してしまったイレーネ。少しでも節約する為に、辻馬車を使わずに屋敷まで歩いて帰ってきた。「ただいま〜」誰も待つ人のいない古びた屋敷に帰ってくると、食卓用の椅子に腰掛けた。「ふ〜疲れたわ……足も痛いし……」履いていたショートブーツを脱ぐと、足のマッサージをしながら壁に駆けてある時計を眺める。「え〜と、今が十時十五分だから……ええ!? 四十五分も歩いてきたのね? どうりで疲れたはずだわ……」ため息をつくとイレーネは履きなれた室内履きに足を通し、二階にある自室に向かった。――カチャ扉を開けて室内に入ると、イレーネは周囲を見渡す。「……本当に何もない部屋になってしまったわねぇ」言葉通り、この部屋にあるのはベッドと小さな文机、それに壁にかけた姿見に衣装箱だけだった。イレーネがまだ子供だった頃は、この部屋はもっと賑やかだった。女の子らしいインテリアで素敵な家具に溢れていた。それに安い賃金でも文句一つ言わずに笑顔で働いてくれていた使用人たちも大勢いた。けれど祖父が病に倒れてからは賃金すら払うこともままならなくなり、全員に辞めてもらうことに決めた。その際彼らに支払える退職金を作るためにイレーネは家財道具の殆どを売り払い、何とか全員にわずかばかりの退職金を工面することが出来たのだった。その後も祖父の治療費の為に売れそうな物は売払い……すっかりがらんどうの屋敷になり、今に至る。「でも、いいわ。これなら引越し準備も特に必要ないもの。さて、明日の準備をしなくちゃ」イレーネは自分に言い聞かせると、早速出立の準備を始めるのだった――**** 翌朝六時――濃紺のボレロとスカート姿のイレーネが姿見の前に立っていた。「うん、いい感じね。我ながら洋裁の腕前が上がったわ。これが以前はドレスだったなんて人が知ったら驚かれるでしょうね」満足そうにくるりと鏡の前で一回転する。昨晩夜なべをして、外出着用の洋服に作り直したのだ。「どうせ、ドレスを持っていても着ていく場が無いのだもの。宝の持ち腐れだったから丁度良いわね」そしてイレーネはボストンバックを持つと屋敷を後にした――****午前七時半――「ふ〜……やっと汽車に乗れたわ」三等車両の空いている座席に座るとイレーネはため息をついた。今朝も彼女は路銀を浮かせるために屋
約三時間かけてイレーネは大都市『デリア』に到着した。駅前の広場は綺麗な石畳で舗装され、『コルト』ではまだ見たこと無い路面列車が走っている。立ち並ぶ建物はどれも石造りで整然と立ち並び、町を歩く人々は誰もがどこか忙しそうに見えた。「本当にここは近代化された町なのね。まぁ、あの大きな建物、なんて背が高いのかしら。十階建てはありそうだわ。あ、あれはもしかすると『車』というものかしら? すごいわ!」ボストンバッグ片手に目の前を走り去っていった黒い車にイレーネは目を見開いた。彼女が住む町は片田舎だ。このような大都市に来るのは生まれて初めてだったので目にする物すべてが新鮮に映った。その時。ボーンボーンボーン駅前にある時計台が十一時を告げる鐘を鳴らした。「あら、いけない。町の光景に見惚れている場合じゃなかったわ。早くマイスター伯爵家の邸宅に伺わないと。お昼時に訪ねては迷惑に思われているかもしれないものね。えっと……伯爵家はここから歩いていけるのかしら?」ポケットから伯爵家の番地を書いたメモを取り出した。「う〜ん……駄目だわ。さっぱり分からない……まずは交番を訪ねてみましょう。確か向こう側に交番があったはずだわ」そこでイレーネは交番へ向かった――****赤い屋根の石造りの交番はすぐに見つかった。「すみません、少々宜しいでしょうか?」イレーネは交番の扉を開けた。「はい、どうされましたか?」カウンターの向こう側のデスクに向かっていた警察官が立ち上がる。「あの、実はマイスター伯爵家に伺いたいので行き方を教えていただけませんか?」「マイスター伯爵家ですか? ええ、教えてあげましょう。あのお屋敷は有名ですからね」まだ年若い青年警察官は笑顔で返事をする。「マイスター伯爵家に行くのであれば、馬車かタクシーを使うのが一番です。路面列車に乗るのでしたら、一番乗り場の『スザンヌ通り』で降りればすぐ目の前に広大な敷地に囲まれたお屋敷がありますよ。そこがマイスター伯爵家です」「いえ、そうではありません。徒歩で向かいたいので道順を教えて頂けないでしょうか?」「ええ!? まさか歩いて行かれるつもりですか!?」大袈裟な程驚く青年警察官。「はい、そうです。大丈夫、足なら自信があります」頷くイレーネに警察官は困った表情を浮かべる。「う~ん……悪いことは言
「……本当に、今夜は戻らないつもりか?」夜空の下。車の前でルシアンは真剣な眼差しでイレーネに尋ねる。「はい、戻りません。今夜の嵐でせっかく耕してしまった畑が駄目になってしまったので明日、作業をしたいのです」「だが……もしまた天候が……」「それならご安心下さい、ほら。空をご覧になって下さい」イレーネに言われて顔を上げると、空には満天の星が輝いている。「……綺麗な夜空だ」思わずルシアンがポツリと呟くと、イレーネは笑顔になる。「ね? これだけ星がでているならもう嵐の心配はありませんから」「確かにそうなのだが……なら、俺も今夜ここに宿泊しようか?」ルシアンの脳裏に、涙を浮かべて恐怖で震えているイレーネの姿が浮かぶ。あんな姿を見せられて、ここに1人で残すことがためらわれた。「ベッドは一つしかありませんけど……なら、ルシアン様がお使い下さい。私はソファでも床でもどこでも構いませんから」「何だって? 女性にそんなことをさせるわけにはいかない」慌てて首を振るルシアン。「ですが、私だって雇い主であるルシアン様にベッド以外では休んでもらいたくはありませんわ」「雇い主……」イレーネの言葉に、何故か壁を感じるルシアン。(やはり、イレーネにとって……俺は契約相手としかみられていないのだろうな)じっと見つめるルシアンにイレーネは首を傾げる。「どうしましたか? ルシアン様」「いや、何でも無い。……分かったよ。もう天気は大丈夫そうだからな。帰るよ」ルシアンは車のドアを開けると乗り込み、再度イレーネに尋ねた。「イレーネ。あと何日程でマイスター家に戻れそうなのだ?」「そうですね……3日以内には戻れると思います」「分かった。とにかく……戸締まりだけはしっかりするんだぞ?」「ええ。大丈夫ですわ。ルシアン様も気をつけてお帰り下さい」ニコニコ笑みを浮かべるイレーネ。「……ああ、それじゃあ」ルシアンはイレーネに見送られながら車で走り去っていった。「……本当に、車というものは早いのね……」あっという間に地平線に消えていったルシアンの車を見ながらポツリとつぶやき……欠伸をした。「ふわぁあああ……眠くなってきたわ。今夜はもう休みましょう。明日は朝から忙しくなりそうだし」そしてイレーネは家の中に入ると、戸締まりをした――****――翌朝パンにチ
――22時半 あれほど酷かった嵐はいつの間にか止み、落ち着きを取り戻したイレーネはダイニングテーブルにルシアンと向かい合わせで座っていた。「本当に、お恥ずかしい姿をお見せしてしまって申し訳ございませんでした」恥ずかしさで顔を赤くしながらイレーネが謝罪する。「別に恥ずかしいと思う必要は無いだろう? 人は誰しも苦手なものがあるだろうし」イレーネが淹れてくれた紅茶を飲むルシアン。(それに……新鮮な姿も見ることが出来たしな。まさかイレーネにもあんな一面があるとは思わなかった)「ルシアン様も苦手なものってありますか?」「え? お、俺か? そうだな……」生真面目なルシアンはイレーネの質問に真剣に考える。「……ある、な」「本当ですか? それは何ですか?」「祖父だ。どうにも子供の頃から祖父には頭が上がらない。だから正直、イレーネには感心している。まさかあの気難しい祖父を手懐けるのだから」「手懐けるなんて大げさですわ。単に仲良しになっただけですから。それにやはり、ルシアン様のお祖父様なだけありますね。お2人は良く似てらっしゃいます」「え? 冗談だろう? 俺と祖父が似ているなんて」ルシアンは大げさに肩をすくめた。「冗談ではありません、本当に似てらっしゃいます。私をとても心配してくれるところとか」「そ、そうか……?」今のイレーネの言葉にルシアンの顔が赤くなる。「……でも、駄目ですね。私って」不意にイレーネが自分の紅茶に目を落とし、しんみりとした口調で語る。「何が駄目なんだ?」「私、祖父が亡くなってからはずっと1人でした。誰にも頼らずに、強く生きてきたつもりだったのに。まさか自分がこんなに弱かったとは思いもしませんでした」「……」イレーネの言葉に、ルシアンは何と応えればよいか分からず無言で話を聞く。「それが、ルシアン様と出会って……誰かがそばにいることが普通に感じてしまっていたみたいです。誰かに頼ることが当然のように……でもこれでは駄目なのに」その顔はとても寂しげで、ルシアンの胸がズキリとする。「イレーネ……」別にそれでいいじゃないかと言おうとした矢先、イレーネが先に口を開いた。「もっと、しっかりしないといけませんね。来年の今頃にはルシアン様とはお別れして、もとの1人暮らしの生活に戻るのですから」「!」その言葉に、ルシアンの肩
――19時「風と雨が強くなってきたな……」窓の外を見つめながらルシアンがポツリと呟く。「そうですね。思った以上に嵐が来るのが早かったようですね」ルシアンの仕事が多忙なため、書斎で簡単に取れる食事を並べながらリカルドが返事をする。「イレーネは……大丈夫だろうか」その言葉にリカルドが首を傾げる。「またイレーネさんのことを気にかけていらっしゃるのですか? 確かに私も心配はしておりますが、あの方は肝も据わっているし度胸もありますから大丈夫だとは思いますけど」「……そうだろうか」けれどルシアンには引っかかることがあった。実は2人で『ヴァルト』に行った際、汽車の中でイレーネが語った言葉だった。『私の祖父は、嵐の晩に病状が悪化して亡くなってしまったのです。嵐のせいでお医者様を呼ぶことが出来ませんでした。今も後悔しています』(そうだ……嵐の夜というのは、イレーネにとってトラウマになっているはず……!)ガタンッ!突然ルシアンは席を立った。「ルシアン様? どうされたのですか?」驚くリカルドにルシアンは上着を羽織りながら答える。「食事はいい! すぐに出かける!」「えぇ!? で、出かけるってどちらへですか!?」「イレーネのところに決まっているだろう!? 彼女が心配だ!」「何を仰っているのです!? この天候で馬車を出せるはずありません! もし何かあったらどうするのですか!? それにイレーネさんなら、あの家にいる限り安心ですよ! この程度の嵐ではびくともしない家なのですよ?」ルシアンの身を案じるリカルドは必死で止める。「家にいるからって安心だということは無いだろう!? それに馬車を使わなくても移動手段なら他にあるのさ」ルシアンはニヤリと口元に笑みを浮かべると、部屋を飛び出して行った――****――20時その頃イレーネはソファの上に座り、ブランケットを被って震えていた。嵐は益々酷くなり、木戸にバシャバシャと雨が当たる音が部屋の中にも響き渡っている。その矢先。ガラガラガラ……ッ! ドーンッ!!「きゃああ!!」物凄い雷の音が鳴り響き、イレーネは身体を縮こませた。(怖い……! 嵐の晩に、お祖父様は……!)イレーネの脳裏に祖父が亡くなったときの光景が蘇る。雨風が激しく吹付け、修繕の行き届かない屋敷の中に隙間風が入り込んでいた。ゴウゴウと不
正午にお茶会はお開きになった。2人の令嬢はイレーネ特製のアップルパイを手土産に持たされ、満足気に帰って行った。「フフフ……とても楽しかったわ。やっぱり女性同士のお話っていいわね」片付けをしながらイレーネは笑みを浮かべる。『コルト』に住んでいた頃のイレーネは祖父が身体を壊してからは、ずっと働き詰めだった。こんな風に令嬢たちと優雅にお茶会をすることなど無かったのだ。「こういう時間が持てるのも、全てルシアン様のお陰ね。本当に感謝しかないわ」そしてふと写真の女性が気になり、イレーネはチェストに近付くと写真立てを手に取った。そこには美しく着飾り、ポーズを取ったベアトリスの姿が映り込んでいる。「まさかこの女性が有名なオペラ歌手だったなんて……きっとルシアン様はこのオペラ歌手の大ファンなのでしょうね」ウンウンと納得するように頷くイレーネ。呑気なイレーネは、ベアトリスとルシアンの関係を結びつける考えには至らない。「さて、昼食を食べ終えたら畑仕事しなくちゃ」イレーネはベアトリスの写真をチェストの上に戻すと、昼食の準備をするために台所へ向かった。****――14時 今日のルシアンは書斎にこもり、たまっていた事務仕事におわれていた。「ふぅ……何だって、こんなに書類が多いんだ? やってもやってもキリが無い」ため息をつくルシアンにリカルドが話しかける。「執事の私ですら仕事のお手伝いをしているのですから、ボヤかないで下さい。だから以前から申し上げていたのです。どうぞ、秘書をお雇い下さいと。当主になられましたら、もっと仕事が増えるでしょう」「確かにそうだな……」「ええ。何しろイレーネさんのお陰で、次期当主はルシアン様に確定ですから。後はイレーネさんをお披露目し、ご自身の地位を確立するだけですしね」そのとき。ガタガタッ!窓が激しく風で揺れた。「何だ? 今日は随分風が強いな」ルシアンは窓の外に目を向け、眉を潜める。「そう言えば今朝の新聞に書いてありましたが、どうやら今夜嵐が来るかもしれないそうですよ?」「嵐だって?」リカルドの言葉に、ますますルシアンの顔が険しくなる。「ええ、そうですが……それが何か?」「いや、イレーネが心配で……」「イレーネさんなら大丈夫ではありませんか? あの家は作りは古いですが、頑丈ですし、窓には木製の扉まで付い
イレーネがこの家に滞在してから5日が経過していた。「フフフ……うん。良い具合に焼けたわ」かまどを覗き込んだイレーネは満足そうに頷き、蓋を開けた。途端に部屋中にシナモンとりんごの甘い良い香りが漂う。「完成だわ。私特製のアップルパイが。これならきっと喜んでくれるはずだわ」イレーネはウキウキしながらリビングに行くと、テーブルのセッティングを始めた。「この家で初めて、お友達をお招きするのだから粗相のないようにしなくちゃ」お友達……勿論、ブリジットのことである。今日はブリジットと彼女の友人アメリアを招いたお茶会をすることになっていたのだった――**** ――10時「ようこそ、いらして下さいました。ブリジット様、アメリア様」約束の時間に来訪したブリジットとアメリアをイレーネは笑顔で迎え入れた。「ええ。遊びに来てと言うので、言われた通りに来たわよ。……はい、これはお土産よ」少し照れた様子で、ブリジットはカゴに入った花束を差し出した。「まぁ、これは美しいお花ですね。それに香りもとても素敵です」花かごを受けとったイレーネは笑みを浮かべる。「私は紅茶を持ってきたの。受けとって頂戴」アメリアはツンとした様子でリボンがかけられた紙袋を手渡す。「わざわざリボンまでかけていただくなんて、お気遣いありがとうございます。ではどうぞ中へお入り下さい」イレーネに声をかけられ、2人の令嬢は室内に入る。「ルシアン様から別宅を貰ったと聞いていたけれど、建物の外観は古そうに見えても中は立派じゃないの」リビングに入るなり、ブリジットが室内を見渡した。「ええ、そうね。家具なんかどれも立派だわ」アメリアもブリジットに同意する。「フフフ、ありがとうございます。実はお二人がいらっしゃるので、アップルパイを焼いたのです。アメリア様が下さった紅茶と一緒にいただきませんか?」「まぁ、そんなものが作れるの?」「アップルパイ……悪くないわね」ブリジットとアメリアが頷き合う。「では、今用意してまいりますので、おかけになってお待ち下さい」2人の令嬢は椅子に座ると、イレーネは台所に準備に向かった。「お待たせいたしました」トレーにアップルパイと紅茶を乗せてイレーネがリビングに戻ってきた。「どうぞ、私が焼いたアップルパイです」皿の上には切り分けたアップルパイが乗っている。
――20時家の扉の前に立つルシアンがイレーネに言い聞かせていた。「イレーネ、俺がこの家を出たら鍵をかけて戸締まりをしっかりするんだぞ? それにもし、誰か尋ねてきたら……」「はい、分かっています。迂闊に扉は開けない。必ずドアアイで相手を確認してから開けるのですよね?」「そうだ、分かればいい」真剣な顔で頷くルシアンを見てクスクス笑うイレーネ。「何だ? 何故笑う?」「だ、だって……何だかまるで、小さな子供に言い聞かせるような口ぶりに聞こえてしまって。ですがご安心下さい。こう見えても私は祖父を亡くしてからはずっと1人で暮らしていたのですよ?」「そ、それは確かにそうなのだが……何しろ、君に何かあっては困るからな。何しろ君は……」「はい、私はルシアン様を当主にするために雇われた身ですから。ちゃんと自分の立場は理解しておりますので、ご安心下さい」「あ、あぁ。そうだな。分かっているならいい」あくまで契約関係を全面に出してくるイレーネにルシアンは何処か寂しさを感じる。「それでは、この家が自分の住みやすいように改善されたら、戻ってくるように。……使用人たちが皆、イレーネが戻ってくることを待ち望んでいるから」2人の関係を契約に基づく関係だと割り切っているイレーネ。だからルシアンは自分も屋敷に戻ってくるのを待っているとは、言い出せなかった。「はい、1週間以内には戻る予定です」「何!? 後1週間!?」まさかの言葉に驚くルシアン。「え? ルシアン様?」首を傾げるイレーネにルシアンは焦る。(まずい! これでは1週間も帰ってこないのかと言っているようなものだ!)そこで慌てて言い直した。「い、いや。後、1週間でいいのか?」「はい、大丈夫です。それだけ日数があれば十分ですから」にっこり笑ってイレーネは返事をする。「なる程な。では遅くとも1週間以内には戻る……ということでいいんだな?」「はい、そうですね」「それでは俺は家に帰るから」「お気をつけてお帰り下さい」そしてルシアンはイレーネに見送られ、辻馬車乗り場へと向かった――****――22時。「どういうことだ! リカルド!」ルシアンの怒声が書斎に響き渡る。「ど、どういうこと? 一体何のことですか? 私には何のことかさっぱり分かりませんが」書斎に呼び出されたリカルドはいきなり、ルシアンに
「こ、こ、これは……」ルシアンはゴクリと息を呑み、写真を見つめる。(ま、間違いない……! これは、あの時撮った写真だ……! まだ残っていたのか……? いや! それ以前に何故ここに飾ってあるんだ!? リカルドが写真を飾るはずがない。イレーネが飾ったことに間違いはない。だが、何のためにここに? もしかして何か気づいているのだろうか!?)頭の中は完全にパニックだった。そのとき。「ルシアン様、お待たせいたしました」トレーに食事を運んできたイレーネが背後から声をかけてきた。「うわぁぁぁぁああっ!!」リカルド同様、悲鳴をあげるルシアン。「キャッ! ど、どうされたのですか? ルシアン様」目を見開いたイレーネが驚きの表情を浮かべている。「あ、あ……写真が……」そこまで言いかけて慌てて口を抑えるルシアン。(しまった!! つい、口が滑ってしまった!)「写真?」イレーネは小首を傾げ、テーブルの上の写真に気付く。「あぁ、この写真ですね? フフフ。まずは席に着きませんか?」「そ、そうだな……」(何だ? 今の含み笑いは)背筋をざわつかせながら緊張の面持ちでルシアンは席に座る。するとイレーネはルシアンの前に湯気の立つシチューとテーブルパンを置いた。そして自分も着席すると、ルシアンに笑顔で話しかける。「お待たせいたしました。子羊のシチューにテーブルパンです。このパンも私が生地から作って焼いたのですよ? あ、よろしければチーズもどうぞ」イレーネはチーズの乗った皿も勧める。「お、美味しそうだな……」緊張しながら返事をするルシアン。「ええ、少し料理の腕には自信がありますの。でもルシアン様のお口に合えば良いのですが……ではいただきませんか?」「え!?」イレーネの言葉に驚くルシアン。(まだ写真の話を聞いていないのにか!?)「どうかしましたか?」「い、いや。いただくよ。これは美味しそうだな……」震える手でスプーンを持ち、さっそくルシアンはシチューを口に運んだ。「……美味しい」「本当ですか?」「あぁ、すごく美味しい。肉も野菜も柔らかいし、シチューの甘みも最高だ。それに……このパンも美味し……」そこまで言いかけ、はたと気づいた。(俺は何をやっているんだ!? まずはこの写真のことを尋ねるべきなのに!)「ところでイレーネ」「何でしょうか?
――18時仕事を終えたルシアンはマイスター家には寄らずに、真っ直ぐイレーネがいる家にやってきた。「ルシアン様。こちらでお待ちしておりましょうか?」 馬車を降りたルシアンに青年御者が声をかける。「ああ。……いや、先に帰っていい」「え? ですが……」怪訝そうな顔になる御者。「……ひょっとすると、状況次第では彼女にただ会うだけでは収まらなくなるかもしれないからな。場合によって、かなり遅くなるかも知れない。だから先に帰ってくれ……ん? 何故そんな顔で俺を見る?」ルシアンは赤い顔で自分を見つめる御者に首を傾げる。「ル、ルシアン様……あ、あまり強引な真似はどうぞ……なさらないで下さいね? 約束ですよ!? 相手は……レディーなのですからね!?」「あ? ああ……分かった。約束しよう」何のことか分からないまま、ルシアンは頷く。「本当ですよ? 絶対に約束ですからね! こ、これは……家臣と使用人としてではなく、男同士の約束ですから! で、では……失礼します!」御者はそれだけ告げると、馬車を走らせて去っていった。「……全く一体何だったんだ? 理由が分からん」ルシアンは首を傾げるとイレーネの元へ向かった。「……まさか、またこの家を訪問することになるとは思わなかったな……」2年前の辛い出来事を思い出し、ルシアンの胸がズキリと痛む。(彼女はこの家が不満で……いつも不機嫌な顔で俺を迎えていたっけ……)そんなことを考えながら、ルシアンはドアノッカーを掴むとノックした。――コンコンすると……。『は〜い!』元気な声が響き、ドアが大きく開かれた。「ルシアン様! こんばんは!」イレーネは満面の笑みを浮かべてルシアンを迎える。その姿に一瞬ルシアンは息を呑む。「あ、あぁ……こんばんは」何と返事をすればよいか同じ返事をし……思い直した。「イレーネ。こんばんは、じゃない。いいか? 君のような若い女性がいきなり確認をせずに扉を開けるのは危険だ。ほら、このドアに丸い穴が開いているのが見えるだろう? これで外を確認してから開けなさい。俺だったから良かったものの、変な男だったらどうするつもりだ?」つい、くどくど説教じみたことを言ってしまう。「あ、それなら大丈夫です。窓からルシアン様が馬車を降りる姿が見えましたので」「え? そう……だったのか?」「はい、でも私
――翌朝「今朝も良い天気ね〜」ルシアンに与えられたお下がり? の家で1人目覚めたイレーネは窓のカーテンを開けた。目の前には緑に覆われた閑静な住宅街が広がっている。「フフフ……ここが大都市『デリア』だとは思えないわ。こんなに自然が残されているのだもの」街路樹を見つめながらイレーネは微笑む。「さて、今日も忙しくなりそうね」着替えを済ませてエプロンを着けると、イレーネは上機嫌で階段を降りていった……。 部屋の中には美味しそうなパンが焼ける匂いが漂っている。イレーネはかまどの前に立つと、パンの焼け具合を確認する。「うん、久しぶりにパンを焼いてみたけど……うまく焼けているみたいね」満足気に頷くと早速かまどからパンを取り出し、朝食の準備を始めた。シンと静まり返ったリビングでイレーネは1人朝食を食べていた。「……何だか味気ないわね。以前と同じようにパンは焼けているのに……チーズだって私のお気に入りのものだし、紅茶だって……」そこまで言いかけて、イレーネの脳裏にふとルシアンの顔がよぎる。「そうだわ。いつもはルシアン様と一緒に食事を取っていたからだわ。……1人で食事をするのは久しぶりだったから……私ったら、いつの間にか誰かと一緒に食事するのが当然だと思うようになっていたのね……」イレーネは何気なく、部屋を見渡し……。「あ、そうだわ。いいことを思いついたわ」早速、席を立ち上がった――****――午前10時「さて。今日から少しずつ畑を耕さなくちゃ」軍手をはめ、麦わら帽子を被ったイレーネは花壇の前に立っていた。隣にはレンガで囲まれた空きスペースがある。「リカルド様は、ここで畑を耕しても良いと仰って下さったわね。まずは地面をならすことから始めましょう」イレーネは鼻歌を歌いながら、上機嫌で畑を耕し始めた。……どのくらい耕し続けていたことだろう。不意にイレーネは声をかけられた。「こんにちは。お見かけしない顔ですね。何をしてらっしゃるのですか?」「え?」顔を上げると、敷地を覆う策の向こう側からラフな姿に帽子を被った青年が馬にまたがってこちらを見つめていた。その顔には人懐こい笑みが浮かんでいる。「はい、畑を耕していました」「畑ですか? これは驚いたな……あれ? もしかして……」「何でしょう?」「あ、やっぱりそうだ。僕ですよ、ケヴィンです